
1550年にポルトガル船が平戸に来航し、宮前事件で長崎に移りましたが、17世紀にはいるとオランダ東インド会社、イギリス東インド会社が相継いで平戸支店を開設しています。
江戸時代の長崎県は佐賀藩、島原藩(島原半島)、大村藩(彼杵地方)、平戸藩(松浦半島・平戸島・壱岐)平戸新田藩、福江藩(五島列島)、対馬府中藩(対馬)、佐賀藩家老の諫早陣屋、交代寄合の五島家の富江陣屋、天領(長崎)に分かれていました。江戸幕府の鎖国方針により、ポルトガル人は長崎から追放され、1641年にオランダ商館が出島に移りました。中国商船の長崎来航も認められており、長崎は鎖国下の日本では数少ない国際貿易港となった。また、対馬藩は幕府から李氏朝鮮との国交の実務を委任される傍ら朝鮮との貿易を公認され、釜山に倭館を置いてこれらの業務を行っていました。
このように、今の長崎県には鎖国時にも幕府の公認で海外へ開かれていた港が二箇所存在していました。
幕末の長崎港開港によって各国商船が来航し、長崎は国際貿易港として更に発展を遂げました。佐世保は日本海軍の大規模な軍港となり、長崎では戦艦武蔵が建造されるなど造船が発達しました。第二次世界大戦末期、1945年6月29日(未明)に佐世保大空襲があり、1945年8月9日午前11時2分米国空軍爆撃機B-29によって長崎市に原子爆弾が投下され、広島市とともに原爆被災地となりました。